2017年8月17日

水中で

八月。半ば過ぎ。雨が多い。どうにか明るい前向きなことを書きたい。…………。最近心動かされたのは、そういうなかでも本を買ってくれるひとがいるということだ。天気の話は置いておいても、今の時代本を買わない理由ならいくらでもある。景気はよくないのだろうし、みんな忙しくて本を読む時間がなかったり、読書ではない別の娯楽も多いはず。それでも一冊の本が売れるというのは、そのひとのその本への好奇心や憧れがそれらの要因に勝ったということで、それはすごいことだと思う。そういう一冊の移動を、古本屋の棚から誰かの手への移動を、積み重ねていきたい。


来月17日、18日に開催のIndependent Bookstore's BOOK FESの準備をすすめている。はじめて参加した2014年の棚の写真がPCのフォルダにあり、合間に懐かしく眺める。まだ店舗の棚も埋まっていなくて、本が足りずに苦し紛れに私物の本もけっこう出した。苦渋の想いで出したが、そういう本に限って売れなくてそれも辛かった(今野くんが好きな本は売れない、というHさんの言葉が思い出された)。あのときはTIGER BOOKSが売り上げでは一番で、上機嫌のKさんは「Cat's Cradleの近くで実店舗を出したい」と快活だった。あれから三年。時が経つのが早い。


三年前には中学生だった常連の男の子も、もう大学受験を控えていたりする。「八歳と十歳の隔たりは単に二年の差ではない。何十年にも相当する深い溝がそこにはある。のちに君が二十歳から四十歳にかけてカバーする距離に等しい、人生の一時期から別時期への途方もない跳躍である」。ちょうど読み終わったオースターの本に出てくる一節。よく店に来てくれる彼は八歳や十歳ではないわけだけれど、それでも自分の眼からするととても凝縮された数年間を過ごしている。そういう時期に、彼の生活のメインストリームの端にであれ、水中書店があるというのはうれしい。


日記のようにあったことを淡々と書いてみたいのだけれど、うまくいかない。昔から日記をつけるのが苦手だ。学生のころ、飽きないように毎日文体を『人間失格』風、西村京太郎風、サン=テグジュペリ風(と言うよりは内藤濯風)と変えながら日記をつけてみたことがあった。あまり続かなかった。先にも引用したオースターの本で、作者自身も若いころ日記をつける習慣が身につかなかったと書いていた。「日誌でわからないのは、いったい誰に向けて語ればいいのかだった」。「現在に没頭するあまり、実は未来の自分に宛てて書いているのだということが見えていなかったのだ」。


一方で、ひとが書いた日記や、日記のかたちがとられた文学作品に惹かれる。俳句に惹かれるのも、この詩形に何となく日記のような味わいがあるからだと思う。ある俳人が、句集をつくるとき、時系列ではなく、四季別で句を並べると、季節を口実に別々の時期にできた句もランダムに並べることができて句集の欠点が見えづらくなると書いていた。句がうまく作れる時期、あまりうまく作れない時期があるものだから、時系列では「このあたりの句がよくない」というのが見えてしまうと。それを読んで、それでは自分が惹かれている「日記らしさ」が薄まってしまうのではないか、と思ったのを思い出した。とは言え四季別の並びの句集にも好きなものは多いのだけれど。


最近読んだ本では荻原魚雷『日常学事始』が抜群に面白かった。二頁か三頁の短いコラム集で、生活の実践にあたっての著者なりの発見や、経験に裏打ちされたコツ、考えていることなどがユーモアある文体でまとめられている。文章の高すぎない密度が心地よく、ずっと読んでいられる。最後の数行でオチをつける巧みさに、実はまだその意味をよく理解していない「コラム」なるものの醍醐味を直観する。「野球の野は野菜の野」「デカルトの悲劇をごぞんじですか?」など名言、名台詞が多い。そのほかではポール・オースター『内面からの報告書』。そのなかに、作者がまだ若いころ、最初の妻となる前のリディア・デイヴィスに書き送った手紙が引かれていて、そこで見つけた一文を。「良い本を見つけて水中で読み給え」。1969年6月11日の手紙から。

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